●『酒乱』の一編

わたしがはじめて現代詩を意識した一編

(第三回 森川雅美 二〇〇八年五月十九日)



さやうなら一万年

草野心平

闇のなかに。

ガラスの高い塔がたち。

螺旋ガラスの塔がたち。

その気もとほくなる尖頂に。

蛙がひとり。

片脚でたち。

宇宙のむかうを眺めてゐる。


(読者諸君もこの尖頂まで登つて下さい。)


いま上天は夜明けにちかく。

東はさびしいNile Blueで。

ああ さやうなら一万年 の。

楽譜のおたまじやくしの群が一列。

しづかに。

しづかに。

動いてゐる。

しづかに。

しづかに。

動いてゐる。


註・「さやうなら一万年」はカルピによつて作曲された最も一般的なエレヂー


いい詩である。非常に大きな世界を感じさせる。草野心平さんの作品のなかでも優れた部類に入るだろう。とはいえ、最も優れた作品というわけではない。収録されているのは、昭和十三(一九三八)年に刊行された、第二詩集『蛙』であり、後に、昭和二十三(一九四八)年『定本蛙』に再録されている。心平さんの「蛙の詩」というと、「秋の夜の会話」や「誕生祭」など、日本の詩の歴史に残る傑作も少なくなく、それらと比べるとこの詩は、やや劣ることは否定できない。しかし、私にとっては特別な意味がある。まさに私が始めて意識した現代詩なのだ。近代詩の範疇という意見もあるだろうが、私にとっては現代詩だった。

掲載されていたのは、中学校の国語の教科書。私は本をほとんど読まない少年だったが、なぜか国語の教科書は好きだった。その中でも、この「さやうなら一万年」という、決して長くない一篇の詩は、説明のできない強い衝撃だった。まず、他に掲載されていた近代詩と比べて、言葉の動きが自由に思えた。そして、「一万年」「宇宙」「Nile Blue」などの、大きい言葉と対峙するように、蛙という小さい存在が置かれていることが、強く印象残った。もっとも、蛙は太古から生き続けてきた生物で、心平さんはそのことを意識していたのだが、当時の私はそんなことは知らなかった。ただ、小さな蛙が宇宙や一万年に、毅然と向き合っていることに感動した。

私は決して幸福な幼少年期を過ごしたわけではない。むしろ生きることには苦痛を感じ、自らの死を常に考えていた。家にいても学校にいても居場所がなく、現実は遺棄すべきもの以外の何者でもなかった。そんな日々の中で、この詩に出会ったのだ。そのときは明確には意識できなかったが、今にして思えば、詩を読んで感じたのは、私が感じている世界をさらに包み込む、大きな世界だったのだろう。そのような世界を感じることが、私にとっていかに大きな救いであったか。今の苦痛がずっと続くのではないということも、おぼろに思ったろう。その後、多くの詩人に会い、私は助けられ何とか生き続けてこられたのだが、それ以前のこの時に、私は詩によってすでに救われていたのだ。そして、今でも詩にはそのような力があると、信じているし、私の詩が誰か一人にでも、そのような力を与えられればと願っている。





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