わたしがはじめて現代詩を意識した一編

(第四回 鈴木啓之 二〇一〇年六月二十三日)


てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。


安西冬衛の「春」。国語の副読本と言うのだろうか、資料集の中にこの詩が載っていた。中学生だったのか高校生だったのかはまるで覚えていない。いずれにしても二十年以上も昔のことなどロクに記憶していない。大体、ここ二、三年のことだって怪しいのだから、そんな昔のことはさっぱり分からない。しかし、この詩のことだけは妙なぐらいにはっきりと覚えている。それだけ印象的だったのだろう。韃靼海峡が具体的にどこにあるのかは知らないが寒々とした「海峡」を風に揉まれながら一匹の蝶が必死にもがきながら飛んでいる様が当時の私には随分と新鮮だった。ただし、それはその時分の何かしらの心情の投影なんかではないはずだ。ただその言葉の連なりをすんなりとその様に読むことができたに過ぎない。だから「必死にもがいて」いるかどうか何てどうでもいいのだ。もっとも、その頃の記憶が無いのだから本当か嘘なのかは知らないし、どうでもいいことだろ?

ここから先が現代詩でここから前は近代詩という、その区切りは知らない。あるのだろうか?あるんだろうな。多分。

このコーナーの趣旨とは違うかも知れないが、詩の思い出をもう一つ。私が詩集を初めて買ったのも中学三年ぐらいの頃だったと思う。古書店だったような気がする。どこかの文庫で「中原中也詩集」を買った。一緒にいた友人は私が詩集をレジに差し出したことに随分と驚き、しかもやたらと大声で笑った。

「お前、何で詩集なんか買ってんだよ?」

その友人はあらゆる生真面目さを嘲ることが好きだった。だから私は端から彼のそうした態度を期待して買った。もちろん、少し読んでみたいという気持ちもあった。でもそれ以上にこれを買ったらコイツ笑うだろうなと思っていた。今さらながら少し申し訳ない気もする。その友人の問いかけ(?)に私が何て答えたかは書かない。覚えていないことにする。

生真面目なんだ。私は。








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